Nature
宇宙は愛でできている
愛とは。
それを知るために、大きな痛みを自らに課している。
痛みを自ら課しているなんて、誰も好き好んでそんなことしないよ。
そうですよね。
でも、あなたが遭遇している「問題」は、あなたが引き寄せたものだとすると、先ほど言った、自己処罰的数式があてはまるよねというお話になります。
大きな大きな渦に、私たちは巻き込まれようとしています。
それは、二元性の極地。
陰きわまれば陽となる、と言われるように、二元の極地のすえに、一元に帰することができるのでしょうか。
それは、違うような気がします。
二極の「陰と陽」「光と闇」などと、二元とは違う。
勝手な解釈ですが、二元が意味するものは、「分離」
「一元」という概念に対して、それを否定するための「二元」が存在しています。
「一元」とは、元々すべてのものは、創造の源、一なるものであるという「分離がない世界」を示しています。
旧約聖書の創世記では、私たちが「知識」を身に着けて「分離」をして、神の声と一体だったことを、忘れていく過程が、アダムとイブの話で象徴的に語られ、私たちの「元型」を示しています。
「源」からほど遠いところに来てしまったなあ。
その「分離」の社会が、現実なんだと「信じ込まされて」教育を受けてきました。
「生きにくい」と誰もが思っていたかもしれない「社会」は、どのように形作られたのでしょう。
いや、形もないんです。
私たちが、同時に同じことを信じてしまったばかりに、そのトラップにはまり込んだに違いありません。
ある日の夢の中に、老人が現れました。
権力を志向し、誰もが独裁者になろうと望んでいると、彼は言います。
自分の個の利を求め、他者の犠牲がどうであろうなどどうでもよい、それを正当化するためには、どんな手段もいとわないそうです。
彼は、民を甘い蜜で引き寄せるために、「自由」「理想」をかかげます。
実際に彼は、こころの中で、自由などという概念は、存在していないと言い切ります。
一見自由にみせかけて、選挙制度や、主義主張、言論の自由などと、うたいますが、民にいかにそれ(自由)が存在しているかのようにみせるためには、理想を掲げて、「真理」を求める瞑想などというものを、遠ざける必要があったそうです。
二元的な科学の法則を作り、戦いを繰り広げてきたという歴史書も作りました。
無意識のうちに、「欲するものは奪う」欲求と、罪の意識による行動と結びつけたのです。
人々の意識から「安全」「安心」も奪いました。
誰からも守られることはないことを、マスメディアで、連続的映像を視覚イメージを、脳に焼き付けすることで、潜在意識に叩き込んできました。
民の弱さを強調する記事や作品も多くのパブリッシャーで拡散。
「私たちは力がない」「貧しい」と。
だから、地位や名誉を欲する、永遠に埋まることのない欠乏感を、人々のこころに、「不安」「恐怖」の種をまき散らしています。と、話してくれました。
彼が恐れるものは、民の個々の「創造的精神」です。
さらに彼の話は続きます。
「創造的精神」
それを、「必ず失敗する」ことと紐づけたから安心と、、、
人々は互いに「欠点」のみを浮き彫りにし、「比較」「評価」します。
これも「自己否定」の結果です。
悪習は大いに助長しがいがありますし、さまざまな欲求も、芸能、ギャンブルの誘惑と依存で、人間性をさらっていくのです。
ルールをたくさん設けることで、複雑化し、混乱させ、カオスを作り出しました。
人間同士は、互いに理解しあえないと信じ込まされています。
二元性を極める商工業は、保護され、投機普及することで、経済を不安定にすることに成功しているそうです。
進歩という名のもとに、実のところは、「本質」は、遠ざけられています。
夢のなかの、ある老人の告白でした。
世界の歴史が変わるとき。
霊において、宇宙法則において、
大いなる流れに身をゆだねると、
日本人が、日本人としてあることが、
きっと世界を助けるのでしょう。
自然は愛でできている、ゆえに完璧。
Nature is perfect,which is love.
170年前西洋文明を受け入れた日本人。
西洋文明(競争)選んだ。
科学、医学の発達。
そのコンセプトは、Nature is not perfect. And should be controlled by human.
2700前、イエス・キリストの登場を預言した預言者イザヤの時代。
すでに国の分裂、侵略、支配によって、多くの人々が犠牲となっていた。
支配者にとっては、「愛」や「完全なる自然」は、最も恐れられる「敵」。
「恐怖政治」が起こった理由は、そういったものを絶滅する目的にある。
真実の中にある、一者の、神ともいわれる存在は、個々の魂そのものであるし、それは永遠不滅ののものであるから。
それを知っていることが、すなわち信仰であり、「恐れ」とは無縁の、「愛」の世界である。
本来の「信」を持った者は、「死ぬ」ことをも恐れなかった。
本当は、「生」も「死」も「闇」も「光」もないからである。
イエス・キリストを信じた最初の信徒は、「死」を恐れていなかった。
日本のサムライや初期の僧侶たちも、同様である。
その「信」は、大いなる源より発したものだから。
光をもたらすもの。ルシファーについて。
God father にそむいて地獄へ追いやられてしまった、バイブルの中では、最高位の天使(神のみ使い)。
実は、ルシファーが示すものは、God mother であるというお話。
Bring Light =ルシファーとすると、聖書に潜在的にある概念は、「一方が欠如したもの」を示すのです。
聖書といっても、これは、宗教のお話ではありません。
世界の三大宗教といわれるものも、聖書をその母体としています。
人間は、言葉を生み出し、たくさんの概念や思想を作ってきましたが、元をたどれば、一なるものに行き着くだけのお話しです。
「言葉」そして、それを別々のものと認識して、二極の一方を、追いやってきたのが、うお座の時代の文明でした。
お父さんは、この社会を一人で築き上げたと、自負します。
「社会」を「会社」に置き換えて考えてもいいですね。
でも、そのお父さんを精神誠意ささえてくれていた「お母さん」に、感謝をしませんでした。
子供たちは、その両親をみて、「何か劣るものがある」と感じるのです。
「女性性」を「劣等」としてきた時代を象徴するわたしたちの「元型」です。
アダムとイブとエデン追放のお話。
聖書を歴史書としてとらえるなら、解釈は、100人100通りあって、その結果、何を受け取るのか、個々の自由となるわけですが…
それを信念体系や教義に結び付けて、形に(物質化)するのも、分離のうお座の時代には、特徴的だったのでしょうか。
「この実以外だったらすべて食べていいよ!」
と神は二人に告げた。
両親が、子供に、「これは絶対に見ちゃダメ!」と言ったとします。
そしたら、どうします?
だめといわれたものは、見たくなりますよね。
昔話や、神話の中に、たくさん、こういった形が出てきませんか?
実は、最初から神は意図していた。
そう考えるとおもしろいですね。
神は、アダムとイブに「叡智」を与えたかった。
単なる知識ではなく、身をもって知る(体験する)ことが、大事と考えた。
神の意図は、JUSTICE 、戒律というものにとらわれず、善悪の判断ができる精神を養うことだったのでは。
両親は、子供に、経験を通して、事の良しあしを、学ばせる役割を持っていると言えます。
子供にあえて経験させることを通して、親子の絆が生まれ、子供は、「信頼する」ことを、携えて人生を歩んでいきます。
親から子に受け継ぐのは、TRUST であり、創造の源から与えられた、JUSTICE への道ではないでしょうか。
へびの象徴するものは、知性。
生きることを知る=死ぬことを知る
どちらも存在しないことを。
生老病死を恐れていては、こころ豊かに生きることができない。
我が子たちを思った母なる神 God mother は、蛇の姿となり、「この実を食べると死ぬ」と言いつつ、「お父さんのように強くなれるから」といって諭す。
そして、善悪を知る実を口にするアダムとイブでした。
この話を、口語ではなく、書き物として後世に伝えていくあいだに、その概念をどうとらえるか、
それぞれの時代の背景や教育や信条が、大きく作用します。
ほんとうは、二極性を通して、対極のもの知ることが、素粒子の世界でいうところの、陽子と電子がそれぞれ自由に飛び交う半霊半物質、中道に生きることの重要性を示しているよう思えてなりません。
二極を行きかう自由な世界を、二元性の分離感は、善か悪。男か女。光か闇。などと、私たちが、どちらかを選択しなければならないように、紐づけていったのでした。
きまりを犯した者は、罰を受ける。
きまりを守る=規律の制定=人が人を罰することができる法
毎日の食べ物のために働かなくてはならない=組合・資本主義・共産主義
すでに見えない刑務所が見えてきませんか?
女性には、出産という大仕事を与え、しかも大変な痛みを伴うことを告げ、(本当は痛みなんてないのに)罰として与えた記述があります。